本について希少性の経済は働くのか

多少出遅れた観はありますが、先月出た『ブック・ビジネス 2.0』を買ってきて読みはじめました。まだ最初の津田さんと橋本さんの論考しか読んでいませんが、触発されてかんがえたことをメモしておきます。

ブックビジネス2.0 - ウェブ時代の新しい本の生態系

ブックビジネス2.0 - ウェブ時代の新しい本の生態系

まず、書籍のビジネスが今後も成り立つ、あるいは成り立たせなければならないという前提について。もうすこし正確に言えば、ある本なりエッセイなりのコンテンツそれ自体に課金して収益をあげるというビジネスの形態が維持できるのかについて。

わたしは書籍ビジネスの実態についてくわしいわけではありませんが、こうしたビジネスは難しくなっていくだろうと思っています。たいして目新しい意見でもありませんが、コンテンツそのものに課金するというビジネス形態は、そのコンテンツの情報自体が稀少であることを前提としています。財としてのコンテンツが稀少であるからこそ、交換経済が成立するわけです。しかし、WWWのおかげでテキストはむしろ過剰になっている。むしろ、稀少になっているのはウェブのユーザの時間です。

そこで、津田さんが言う書き手と読み手が直接結びついた「オンデマンド」出版や、橋本さんの提言にある「投げ銭」の制度化をすることによって、ユーザが欲するものが作られる仕組みがととのえられる、そういう筋書きはありだと思います。しかし、問題はそのような制度がどれくらいの期間もつかです。たとえば、セマンティック・ウェブのような構想が実現するまでの、過渡期にだけ成立しうるものなのではないか。繰り返しますが、そうだとしても一時的にそういう過渡期のための仕組みをつくるのはもちろんいいことだと思います。しかし、ウェブ上(とそれ以外)のリソースが非常に効率よく見つかるようになってしまったとき、はたして特別な書き手へ読者が「投げ銭」を出すものかどうか。わたしは非常に疑問に思っています。

テキスト(とその他の情報のコンテンツ)が稀少でなくなるのであれば、交換のゲームはほとんど無意味になります。そうなると、準備のための資金を誰も持たなくなり、クリエイティヴな作品はなにも書かれなくなる。そうでしょうか?

テキストが過剰になったときの、書き手と読み手の組織化の可能性はどのようになるか。わたしは、ここで(当然ながらといいたいが)10年以上前に書かれた古典、エリック・レイモンドの「ノウアスフィアの開墾」を引きたいと思います。レイモンドによると、オープンソースの活動を成立させているのは、ハッカーのあいだの「贈与の文化」です。オープンソースハッカーたちの社会では、「生存に関わる必需品―つまりディスク領域、ネットワーク帯域、計算能力など」が欠乏することが起きないため、そこでは交換による関係が無意味になってしまいます。そうした環境では、「その人がなにをコントロールしているかではなく、その人がなにをあげてしまうか」で社会的ステータスが決まります。リソースが豊富すぎるために、中央集権的権力や市場は成立せず、「競争的な成功の尺度として唯一ありえるのが仲間内の評判だという状況」が生まれるというわけです。

テキストの書き手と読み手の組織化は、この評判ゲームのラインで可能になっていくのではないかというのがわたしのかんがえです。むしろ、津田流の「オンデマンド」出版や橋本式「投げ銭」の制度は、レイモンドのいう伽藍方式(「「伽藍とバザール」参照)なのであって、クリエイティヴな活動にとって必ずしも最適ではないのではないか。

ここで、先日読んだボブ・スタインの「メモ」を思い出しておきたいと思います。スタインによると、紙時代の著者が将来の読者のために特定の主題にかかわる人という役割を期待されていたのに対し、ネットワークに本が置かれる時代には主題の文脈に沿って読者とかかわる人に変わる、あるいはそういう性格が強調されざるをえないと論じています。

この、「主題の文脈に沿って読者とかかわる人」という像に心当たりはないでしょうか。「主題」を「コード」に、「読者」を「ハッカー」に置き換えてみてはどうでしょうか。リーヌス・トーヴァルズ、ラリー・ウォール、グイド・ヴァン・ロッサムといった名前が口をついて出ませんか(出ねーか)。わたしたちはすでに未来の著者のモデルを手にしています。

わたしたちが、頼まれもしないのにブログを書いたり、どこかでチュンチュンさえずったりしているのは、テキストの過剰の時代の黎明期にいるからなのです。